昨年夏のこと。
2年ぶりに実家に帰省した際、祖母に会ってきた。
半年前から老人ホームに入居しているという祖母。6畳ほどの個室に通されて、驚いた。荷物が…まるでない。
数枚の上着とズボン。下着が3セット。なぜか靴下だけは1週間分。わずかなタオル類。そしてティッシュ、目薬、歯ブラシと歯磨き粉。
現金管理は母にまかせているので、お金は持っていないという。
食事や入浴のサービスが別にあるとはいうものの…。人生最期の時を迎えるにあたって人間が必要とするものは、たったこれっぽっちなのか。。。その現実に、愕然とさせられた。
5年前新潟から埼玉に越して来るときに、あらかたの物は処分したという祖母。そんな彼女が大切にしていたモノは、植物のスケッチブックと作文の通信講座の添削用紙だった。
帰省するたびにスケッチブックを開いては、楽しかった山野草の話をしてくれた。作文の出来・不出来を、自ら解説してくれた。毎度繰り返す同じ話が、、、私はただ嬉しくって仕方がなかった。
しかし、ボケが進行した現在は、もはや思い出すらも必要とされていない。残酷にも、祖母の頭からそれらは消失してしまった。経験も、思い出も手放して、あとは肉体を手放す瞬間をただ待つだけ…。
お金もモノも天国へは持っていけない。物質だけが全てじゃない。モノより思い出、経験こそが宝。金を出してでも経験を買え。
世間では、よくそんな風にいわれている。わたしも20〜30代にかけては、それを必死に実践してきた。
しかし人生の最終局面においては、思い出も経験も手放さなくてはならないだなんて…。人生とは何と残酷なものであろうか。
「断捨離」「シンプルライフ」「ミニマリスト」という思想が、まるでただのお遊びにように感じられてしまう。
老い支度、なんて生易しいものではない。もはやわずかな日用品の所持しか許されない、強烈な現実だけがそこに在る。しかもそれは、未来へ向かう道では決してない。滅びへと向かう道、死へ向かうその日暮らし。
究極のシンプルライフを突きつけられて…人生の在り方を、自分に問い直すべきと、強く感じた。